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TFJC | afterwords
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Tue 2 & Wed 3 April 03 一夜明けると雪はやんでいて、青空のもとの銀世界という一番いい眺めが広がっていた。ホテルを後にして通りかかったシラキューズの街は、おりしも地元シラキューズ大学がアメフトの試合で何年ぶりかで優勝したとかでわき返っていて、雪の街に大学シンボル色のオレンジが明るく散らばっていた。さようならシラキューズ。また来る日があるかどうかは知らないが、でも今後この名を耳にするたび、ひそかにわたしはニヤリと笑うだろう。やれやれさて。それでは、来たのと逆の道をたどって、海のむこうのおうちに帰って、フロにでも入って幸せにあたたかいオフトンに入って寝て起きて、素知らぬ顔で社会復帰しよう。と思っていたのだが。 帰路では一旦JFK空港でとどまり、バスでマンハッタンに向かい、そして47丁目のホテルに投宿した。ニューヨーク方面に来てマンハッタンに滞在する、と、このへんでようやく通常の観光客行動に同化できたように思えた。しかしジクジたる思いでここに告白する。さあマンハッタンに来た、というので一番最初にわたしがしたことは、サックスやメイシーズで華麗にブランドお買い物、ではない。美術館をおとずれ名画とともに静かに教養を深めた、ことでもない。映画のひとこま気分でロックフェラーセンターでくるくるアイススケート、でもない。ノブだのベルナルダンだので摩天楼風景をおかずにゴハン、でもない。全然ない。わたしはそのようなカタギの観光客が行くであろう明るい場所にはまったく関与することなく早足でさっさか通り過ぎ、そして24ブロックを歩き通して23丁目のニューヨーク公立図書館にたどりつくとすぐにその薄暗い地下にもぐりこみ、それまで2年くらいずーーーっと探していた、ビデオ・アーツ代表取締役ジョン・クリーズ氏によるビジネス論の講演抄録が載っている、「フォーブス」89年のある号を発掘していたりしたんである。 実は旅に先だちマンハッタンに泊まろうかどうしようか考えているとき、「ニューヨークねえ。そういえばフォーブスという探し物があったよなあ自分。イギリスじゃ見つけにくいものだなあ。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの図書館も大英図書館も探したけれど見つからないんだよなあ。けどニューヨークなら、図書館に行けばきっとあるのだろうなあ、フォーブス」と思ったことは事実ではある。しかし妙齢の女がサックスもメイシーズもメトもモマもすっ飛ばして、いきなりこんなふうに薄暗い図書館にこもっていていいのか。いやいいのだ。この後に観光とか買い物に行ってつじつまさえ合わせれば結果は同じだもん。とぶつぶつつぶやきながら、古雑誌のホコリくさい棚をかきまわした。 あいにく目当ての89年のフォーブスの現物はすでに処分され、マイクロフィルムしかないことがわかったが、それでもフィルムからジョン取締役の記事をコピーすることができた。うわあ。すごい。こんなに探し続けていたものがにこんなに簡単にあるとはさすがアメリカだなあ。アイラブニューヨーク。宝の山みたいだなあ。と感慨にふける脳内にふと、 「そういえば、ケンブリッジ図書館や大英図書館には、ケンブリッジ・サーカスのケンブリッジ公演とロンドン公演の資料がそれぞれ保存されている。では、ここには連中のニューヨーク公演関係物件が何かあるのではないだろうか」 という天啓というか誘惑というか、よこしまな考えがぴかりと光った。 その瞬間からわたしは、二度とふたたびサックスだのメイシーズだのいう単語を思い出すことはなかった。その足で1階に駆け上がり、司書嬢をつかまえ恥も外聞もかなぐり捨てて、これこれこういう芝居の団体の資料を探しているなんとかしてくれと頼みこんだ。司書嬢いわく「たぶんあると思うけど、そういう資料の目録はコンピュータにはまだ入ってないから、インデックスカードをあたってみなさい」と言う。わかったじゃそのカードはどこでしょうと訊くと、それは図書館の芸術部にある、しかしこことは建物が別で、芸術部は63丁目のリンカーン・センターの隣にある、と返ってきた。 だからその足で23丁目から63丁目まで40ブロックを一度も休まず、今朝来た方向とは逆にだーと走り抜け、華麗なるメトオペラ劇場などには見向きもせずにニューヨーク図書館芸術部の建物に飛びこんだ。中でさらに人に数回尋ねた末3階の演劇関係資料部にたどりつき、壁の一辺を占めてずらりとアルファベット順に並ぶインデックスカードの棚に飛びついてCの引き出しを開け、ABCの歌を小さく歌いながらカードをめくっていくと 「このファイル全部見せて下さいすぐ下さい今下さい」と頼むと、司書嬢はしばらく手元のキーボードをぱたぱた叩き、ちらりと腕の時計を見て、首をかしげた。そして「この5冊のうち2冊はイメージファイルなので、出すのに時間がかかります。もう午後ですから、おそらく今日は無理でしょう。ペーパーファイルの方ならすぐに出ると思いますが、どうします?」と言う。イメージファイルが何なのかよくわからないまま、「ではすぐに出る方を下さい」と頼んだ。 やがて整理券の番号が呼ばれたのでカウンターに行き、持ち重りのするファイルを3冊もらった。席に戻って開けてみると、それぞれのファイルから、ケンブリッジ・サーカスに関する、1965年当時のプレイビル(パンフレット)や新聞・雑誌の切り抜きがぞろりと出てきた。印刷物以外にも、ニューヨーク公演のプロデューサーのマイケル・ホワイトの名が入ったレターヘッドに殴り書きされているメモや、ハンフリー・バークレイからのマイケル・ホワイト宛ての手紙なども混じっている。どう考えても内部の資料としか思えない。というか、ホワイト氏が、サーカスをプロデュースするにあたり手元に集まった紙類をどんどんファイルに放りこみ、ある時点でそれをそのまま図書館に「はい、あとはよろしく」と渡したかのようだ。 切り抜きは名も知らぬ新聞の3cm四方の紙片から、ヴィレッジ・ボイスを折りたたんだものまでさまざまだった。大小のレビューをざっと読むと、「ロンドンからケンブリッジ・サーカスというちょっと変わった若者たちがやってきたけど、うーん、なんだかなあ」という一歩置いた反応が多く、必ずしも絶賛大好評というわけではなかったようだ。「さわがしいだけでどこが面白いのかよくわからない」という言葉も見えた。まそれは仕方がないだろう。サーカスは、ロンドンでも、新しすぎて何がなんだかよくわからない連中だったのだ。しかしニューヨークとの違いは、60年代のロンドンの観客はなんだかよくわからないものをとりあえず面白がることができた、ということだろうか。 いくつか『発見』をした。まず、新聞のTV欄の切り抜きが数片あり、そのほとんどはある日の「エド・サリヴァン・ショウ」関連のものだった。そうだサーカス連はこの有名な番組に出たんだった、と思いながらさらに紙片を改めると、エド・サリヴァンではないTVの切り抜きがはさまっていた。何だろうとよく見てみると、それはニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙65年2月12日のTV欄コラムの切り抜きのようだった。コラムのうちの1行に赤線が引かれていて、いわく、「ロンドンからやってきたケンブリッジ・サーカスという団体がいるが、彼らの公演の模様は2月27日10時からWNEW-TVで放送される。」 わっ。なんてこった。サーカスの舞台は、ニューヨークで録画されてTV放映されていたのだ。ロンドン公演ですら、断片的な音の記録しか残っていないというのに。フィルムは残っているのだろうか。どこかにしまってあるのだろうか。誰に訊けばありかがわかるのだろうか。 それから。サーカス連はニューヨークで公演するにあたり、アメリカでは通じにくいスケッチを削り新たに書いたものと差しかえた、ということは以前どこかで読んで知っていた。そのとき後輩エリック・アイドルのスケッチを勝手に拝借したということも知ってはいた。しかし、手元のニューヨークプレイビルのクレジット欄には、"Additional
material: Terry
Jones" と書かれている。 ココロ騒がせながらさらにめくっていくうちに、ふと手が止まった。質の悪いわら半紙のような紙に書かれた、手書きの手紙が数枚ホチキス止めされている。文書の先頭には宛先がある。どうやらある地元の印刷会社宛の手紙のようである。読むと、ケンブリッジ・サーカスの紹介と、今公演のキャストとスタッフのリストと経歴があり、そして演じられるスケッチのタイトルが箇条書きで書かれている。ふと思い出して、先のファイルにはさまっていたプレイビルと見比べてみると、内容がまったく同一である。つまりこの手紙は、プレイビルを刷っていた印刷屋さんに「こういうふうに印刷してください」と渡された原稿だと思われる。のだが。 閉館を告げるアナウンスが聞こえてようやく我に返り、知らない間に机一杯に散らかしていた紙片を元通りに集めてファイルに丁寧に綴じこみ、カウンターに返した。外に出て、次にあのファイルを開けるのは一体誰だろうか。一体いつ開けるのだろうか。その人もやはり、40年前にこの街に来たイギリス人の若者たちの空気を追いかけ、古紙の筆跡にシビレたりするのだろうか。と、暮れなずむメトオペラ噴水に腰かけ考えた。 次の日は夜の便で帰らねばならない。わたしは朝早くホテルをチェックアウトし、そのままスーツケースをすごい速さでごろごろひきずりながら走って行ってまた図書館に飛びこんだ。入り口でスーツケースを預けて昨日と同じ司書嬢さんに、ケンブリッジ・サーカスのイメージファイルなるものを2冊頼んだ。お嬢さんはまたぱたぱたキーボードを叩き、今度はチケットを差し出して、呼ばれたらこれを持って別の写真閲覧室に行けと言った。1時間ほど待った。ようやく呼ばれたのでその部屋に行くと、小さなスペースに机が教室のように並んでいた。先生の位置に司書の人が座っていて、ファイルを受け渡しし、そして「悪さすんじゃないよ」という顔で写真を見ている人たちをじろじろ見ている。チケットを渡して「このファイルをここで受け取るように言われたんですが」と言うと、司書氏は「手袋を持ってるか」と言う。「は?」「手袋だってば。前にここに来たことはあるか」「いえ、うちが遠いのであんまり。特にこの部屋は初めてですが」「そうか、じゃ、ここで写真を見るときは手袋をしてもらうことになっているから。一組あげるのでこれをはめるように。(と箱から使い捨て白手袋を取り出す。)それからファイルは1冊ずつ渡すから、1冊見終わったら持ってきなさい、次のと替えてあげる」と言う。 なんだか図書館の資料というよりは、美術品の取り扱いのようだ。大英図書館でも、ケンブリッジ・サーカスの脚本の現物の閲覧は専用の閲覧箱に入れたまま行なうべし、べたべた触るの禁止、コート着用のまま閲覧するの禁止、そしてペンやボールペンは閲覧室に持ちこむのすら禁止、などかなりキビシイことを言われるが、ここはそれ以上である。一体何が出てくるのだろう。 司書の人の目の前の机について、手袋をはめ、1冊目のファイルを開けた。封筒のような小さな袋がさらに入っている。ハガキよりひとまわり小さなものの手触りがする。袋を開けて手のひらに取り出してみると、それはひと束のスナップ写真だった。セピアにあわく褪せかけていて、なんだか古そうな写真で、1枚目に映っているのは英国郊外の住宅地みたいで、そしてその中にいるのは - 一目でまだ学生だとわかるグレアムだった。今まで一度も見たことがないグレアムだった。グレアムが、晴れた日ざしをあびて、路上に座りこんで笑っていた。わたしはその視線に眉間をがんとやられて、思わず写真を取り落としそうになった。あわてて持ち直すと、次の写真が見えた。それは同じ英国郊外の風景のなかにいるジョンだった。削ぎおとされたように痩せていて、セーターがハンガーにかかったような肩をしていて、こちらは道にすくっと立っていた。なんて写真なんだ。今自分が持っているものの意味に気づいたとき、両手から脳にかけて、びりびりびりとデンキが走った。 その次からはさまざまに場所を変えて、あるときは路上、または公園、そしてある屋上で青空のもと、グレアムとジョンの他にティム・ブルック=テイラー、デイヴィッド・ハッチ、ジョー・ケンダルがそれぞれの表現でおさまっていた。ビル・オディがいないようだが、と思ったとき、裏に何か字が書かれているのが見えた。
たとえばティムのものの裏に"ビル・オディ"とある。ははあこれは撮影者だ、ビルがカメラマンだったのかと思った。しかしその他のものにはティムやハンフリー・バークレイなどの違う名前がある。どうやらカメラを渡しあい交互に写真を撮りあったようだ。ふと思い出して、1枚目のグレアムの写真を裏返すと、そこにはあの癖のある細長い字があった。"John
Cleese"。ジョンが撮ったのだ。グレアムはこういう顔でジョンの写真におさまって、ジョンは写真の裏に自分の名前を書いたのだ。それから40年を経て自分の手の中に来たグレアムを見つめ、わたしはこの一葉を握りしめたまま走り出しそのまま家に帰りたいと思った。(こういう奴がいるから先生の司書さんがついているのだろう。)10枚以上ある写真を机に丁寧に並べてみた。20代のケンブリッジ・サーカスたちは、明るい目を撮る人に向けていた。まるで60年代を胸いっぱいに吸いこんだような顔だった。それは無防備なまでにとても明るいので、見ていると、ココロの内側が小さな熊手でちくちくがりがりと引っかかれるような気がした。 代えてもらって次に受け取ったファイルは、ずしりと重くて厚くかなり大きい。開けてみると、モノクロ4つ切りの束が出てきた。ネクタイを締めてちょっと改まった感じのサーカス連が、集合、2・3人ずつ、単体と、様々な組み合わせで何枚も映っていた。一目でスタジオ撮影のプロによる仕事だとわかった。かしこまった集合写真もある一方、ジョーがひざまずいてティムの爪を磨いていたり(ティムは素知らぬ顔で片手の新聞を読んでいる)、ティムがビルを膝の上に乗せていたり(ピッタリサイズ)、ジョンがデイヴィッド・ハッチに空手チョップをくらわせていたりするものもあった。ノリがなんだか、見えるISIRTAみたいだ。(実際のちのISIRTA時代には、ジョンがビルを膝に乗せている写真がある。)それぞれの裏には、57丁目という所在地も入っている、「フリードマン=アベル写真スタジオ」というスタンプが押されていた。 こちらもやはり目にするのは初めてのものばかりだったが、1枚だけ例外があった。ジョー、ハッチ、ジョンの3人の胸像で、しかし頭ひとつ上空に出ているジョンが何故かロシア人のような毛皮帽をかぶっていることだけが正調肖像写真であることを妨害している。それが米雑誌「HELP!」65年5月号、すなわちジョンと魔性のバービー人形の写真マンガ "Christpher's Punctured Romance" が掲載されている号の編集後記欄に、「このたびイギリスからニューヨークにやって来た新人ジョン・クリーズ君をご紹介申し上げる」というテリー・ギリアム編集人のコメントとともに掲載されていたのを見たことがある。 ということは。と考えた。これはおそらく、サーカス連のニューヨーク活動のプロモーションのために撮影されたものなんだろう。1冊目のスナップは、以前から各自の手元にあったものを集めて持ってきたのかもしれない。それがニューヨークでどこにどの程度使われたのかはわからない。昨日見た切り抜き類にも、少なくとも保存されているものの中には写真つきのものは一枚もなかった。スナップの方にあるジョンの写真は1枚だけのちのパイソン本で見かけたことがあるけれど、それにはジョン個人の所有物だとクレジットがついていたと思う。その他のものはスタジオ撮影の方を含めて、おそらく今に残る形ではあらわれていない。人の目に触れないまま、いろいろいきさつがあって、ここのファイルに綴じられることになったのだ。しかし世のパイソン史記述作者が、この写真に出会ったら、どこかで本に収めているはずだと思う。これを知りながら見逃すとは考えにくい。ということはつまり、おそらく、誰も知らないのだこんな写真が束でここニューヨークにあるということを。だからもしわたしがひとりで見ただけで、このままファイルを返してしまうと、この64年のサーカスの記録はまた書架の奥底に戻っていくだけであり。 わたしはそれはだめだと思った。この学生たちは40年前、ケンブリッジからどんどん出て行き首都ロンドンで一旗あげて、海を越えてゆきニュージーランドを経て、ついには光輝くニューヨークにたどり着いたのだ。今ではもう起こり得ない現象なのだ。自分たちが先輩大人クックともフロストとも違うところに達したことを自覚していたのであろうこの明るい目をした人たちがニューヨークに残した記憶、それはもう少し明るいところにいなければいけないと思った。これがまたどこかのすみっこに人知れず押しこまれておそらく何年もそのままにされる、ということにはどうにも我慢ができないと思った。 思った結果、
ケンブリッジ・サーカスについては、詳しくは拙解説をご参照下さい。 Uploaded: 12 April 2004
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